2011年1月17日月曜日

魏晋洛陽都城制度攷

佐川論文のあとに読んだのが、
外村中「魏晋洛陽都城制度攷」(『人文学報』99、2010年12月)。

魏晋期の洛陽城について、主に文献史料を使って、
従来の「後漢南宮―曹魏太極殿」説を否定し、
近年、有力になってきた「後漢北宮―曹魏太極殿説」を主張。
また、太極殿だけではなく、曹魏時代の宮殿配置について、
詳細に史料を示し、復元図を作成している。

それを踏まえた上で、魏晋洛陽の主要部は、
後漢の洛陽とも隋唐の長安とも異なっており、
魏晋南北朝期の帝都の規範となっていたとする。

ただ、後記に原型は2003年以前にできており、
2003年に出た銭国祥氏の新説(「後漢北宮―曹魏太極殿説」)を
踏まえて2007年に書き改めたとあり、
刊行までに若干のタイムラグがあるようだ。

都城史の理解をめぐって、佐川氏とかなり違いがあります。
今後、議論が深まってほしいです。

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追記:2011年2月18日(金)
上記の論文は、京都大学学術リポジトリ
読むことができます。

曹魏太極殿の所在について

最近、期せずして、立て続けに魏晋洛陽城に関する論文を読みました。

まずは、佐川英治「曹魏太極殿の所在について」(岡山大学文学部プロジェクト研究報告書『六朝・唐代の知識人と洛陽文化』2010年1月)。

曹魏時代の太極殿については、
従来、後漢の南宮に建造されたと理解されてきたが、
近年では、考古学の成果などにより、後漢の北宮に
曹魏明帝の太極殿があったという説が有力になってきている。

しかし、佐川氏は「後漢北宮―魏明帝太極殿」説の
根拠となっている「魏曹植毀鄄城故殿令」を詳細に分析し、
「後漢北宮―魏明帝太極殿」説を証明する史料に
なりえないことを指摘。
また、考古成果によって、北魏の閶闔門が
魏晋期の宮門を継承していることが明らかとなったが、
その宮門を曹魏明帝期の闔閶門に
比定してよいか疑問が残るとする。

これらのことから佐川氏は、近年の研究動向と異なり、
後漢の南宮に曹魏明帝の太極殿があったという従来説が
正しいのではないかとする。

曹魏洛陽城を積極的に評価する近年の研究動向と
かなり異なった評価をしています。
中国都城史を考える上で魏晋洛陽城の研究を
深める必要があるようです。


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追記:2011年2月18日(金)
上記の論文は、岡山大学学術成果リポジトリ
読むことができます。