2012年6月21日木曜日

東アジアの漢文訓読

青山学院大学日本文学会大会
日時:2012年6月30日(土)13:00~15:00)
場所:青山キャンパス930教室(9号館3階)
入場無料

講演
金文京「東アジアの漢文訓読」

2012年6月18日月曜日

震災・核災害の時代と歴史学

歴史学研究会編『震災・核災害の時代と歴史学』(青木書店、2012年5月)

『歴史学研究』2011年10月号の「緊急特集 東日本大震災・原発事故と歴史学」をもとに、書き下ろし原稿を加えた論文集。その後の研究の進展や事態の展開を反映して改稿されているので購入。

目次は以下の通り。*は新稿。
Ⅰ 東日本大震災と歴史学-災害と環境
平川新「東日本大震災と歴史の見方」
保立道久「地震・原発と歴史環境学―九世紀史研究の立場から」 
矢田俊文「東日本大震災と前近代史研究」
北原糸子「災害にみる救援の歴史―災害社会史の可能性」
小松裕「足尾銅山鉱毒事件の歴史的意義―足尾・水俣・福島をつないで考える」*

Ⅱ 原発と歴史学-「原子力」開発の近現代史
平田光司「マンハッタン計画の現在」
有馬哲夫「日本最初の原子力発電所の導入過程―イギリスエネルギー省文書「日本への原子力発電所の輸出」を中心に」*
加藤哲郎「占領下日本の「原子力」イメージ―原爆と原発にあこがれた両義的心性」*
中嶋久人「原発と地域社会―福島第一原発事故の歴史的前提」
石山徳子「原子力発電と差別の再生産―ミネソタ州プレイリー・アイランド原子力発電所と先住民」

Ⅲ 地域社会とメディア-震災「復興」における歴史学の役割
奥村弘「東日本大震災と歴史学―歴史研究者として何ができるのか」
岡田知弘「東日本大震災からの復興をめぐる二つの道―「惨事便乗型復興」か、「人間の復興か」」*
三宅明正「記録を創り、残すということ」
安村直己「言論の自由がメルトダウンするとき―原発事故をめぐる言説の政治経済学」
藤野裕子「関東大震災の朝鮮人虐殺と向きあう―災害時の公権力と共同性をめぐって」*

Ⅳ 史資料ネットワークによる取り組み
佐藤大介「被災地の歴史資料を守る―東日本大震災・宮城資料ネットの活動」
阿部浩一「福島県における歴史資料保存活動の現況と課題」
白井哲哉「茨城文化財・歴史資料救済・保全ネットワーク準備会(茨城史料ネット)の資料救出活動」
白水智「長野県栄村における文化財保全活動と保全の理念」*

Ⅴ 資料編
石井正敏「貞観十一年の震災と外寇」*
棚井仁「自治体史のなかの原発」*

Ⅵ 災害と歴史学 ブックガイド

災害・原発・復興・資料保存・資料編・ブックガイドと充実のラインナップ。不足している点としては、避難・移住の問題だろうか。原発事故による大規模避難・移住の先例としては、チェルノブイリ原発事故ぐらいなので、歴史学としては取り上げにくいのかもしれないけど、火山災害などで避難・移住をよぎなくされ、しかも帰還困難になった事例はけっこうあるはず。災害のみならず、侵略による避難・移住も視野にいれれば範囲はより広がるのでないだろうか。中国史でいえば、4~6世紀の東晋南朝における僑州郡県や、12~13世紀の南宋の事例が該当する。福島県いわき市に大熊町(仮の町)を置く構想もあるし、避難先・移住先における集団維持または解体を歴史学として取り上げることも可能なように思える。

艾未未読本

牧陽一編『艾未未読本』(集広舎、2012年5月)

2011年4月3日に北京国際空港で拘束され、
6月22日の保釈後も自宅軟禁状態が続いている
アーティスト艾未未(アイ・ウェイウェイ)のこれまでの軌跡と
彼自身の言葉(インタビュー・文章)をまとめたもの。

目次は以下の通り。
牧陽一「艾未未二〇一一」
宮本真左美「艾未未概説」
牧陽一訳+解説、麻生晴一郎解説「艾未未のことば1《公民調査》」
牧陽一訳+解説、栗山明+堀川理沙解説「艾未未のことば2《芸術》」
宮本真左美訳「艾未未のことば3《建築》」
牧陽一訳+解説、石田留美子+ふるまいよしこ解説「艾未未のことば4《評論》」

艾未未のみならず、友人の栄栄と映里(写真家)や
左小祖咒(ロック歌手)も取り上げている。
艾未未の多様な活動と現在までの状況が
一目瞭然となる最適の読本。
現代中国に関心のある人は必読。

また、中国云々は置いといて、
現代アートに興味ある方も読んで損はない。
Chim↑Pom企画の「ひっくりかえる」展との、
見えないつながりを看取できるはず。

2012年6月15日金曜日

第16回六朝学術学会大会

第16回六朝学術学会大会
日時:2012年6月16日(土)13時10分~17時45分
会場:二松学舎大学・九段キャンパス・三号館
大会参加費:1,000円

研究発表 13:20〜15:00(各発表20分、質疑10分)
亀井有安「魏文帝の詩歌にみえる感情表現の特質―「腸」を中心に―」 
横山きのみ「皇甫謐の著作がえがき出す出処―『高士伝』『帝王世紀』の意義―」
池田恭哉「新王朝への態度―北斉滅亡時の士人たち―」 

特別講演 15:15〜15:55
戴燕「中国六朝文学研究的向及我的一点看法」  
記念講演 16:00〜17:00
妹尾達彦「江南文化の系譜―建康と洛陽」

2012年6月8日金曜日

東洋文庫と本の世界

2012年度春期東洋学講座
東洋文庫ミュージアムオープン記念講演会
「東洋文庫と本の世界」
会場:東洋文庫2階講演室
聴講無料・申し込み不要

6月11日(月)16時~18時
塚原東吾「オランダ語・日蘭関係史料による19世紀の古気候再現―東洋文庫に収蔵されるシーボルト史料を発端として」

6月20日(水)16時~18時
岩尾一史「チベットの文字の文化史」

6月29日(金)16時~18時
池田美佐子「エジプトにおける民主主義の系譜と議会文書」

2012年6月6日水曜日

陳寿の処世と『三国志』

田中靖彦「陳寿の処世と『三国志』」(『駒沢史学』76、2011年3月)

遅ればせながら最近読んだので紹介。
「正統」論に対する疑問をもとに、
陳寿撰『三国志』の三国観を検討している。

従来、正史『三国志』は、「曹魏正統論」を説きつつ、
ひそかに蜀漢を称揚しようとする含意が込められている
歴史書と理解されてきた。
確かにそうした傾向は存在しているが、その一方で、
『三国志』は、魏の「漢→魏」、蜀漢の「漢=蜀漢」、
呉の「漢→魏→呉」という主張をすべて記録しており、
三国いずれに対しても一定の合法性を認めている。
また、魏から晋への禅譲のみならず、
蜀漢・呉の投降に関する文書を採録することで、
「蜀→晋」、「呉→晋」という継承関係も示している。
すなわち、『三国志』は、三国すべてが晋に帰着したことを示した歴史書である。

『三国志』のみならず、分裂時代を扱った史書の性質を考える際には、正統性の問題を意識せざるをえないが、本論文によって、正統性にとらわれすぎるのも危険であることを実感した。

2012年6月5日火曜日

発見!お茶の水女子大学の広開土王碑拓本

第14回国際日本学シンポジウムセッションⅠ
発見!お茶の水女子大学の広開土王碑拓本
日時:2012年7月7日(土)13時~17時30分
場所:お茶の水女子大学本館3階306室
資料代500円

研究発表
武田幸男「広開土王碑の真意を求めて」
徐建新「広開土王碑拓本研究とお茶の水女子大学本の年代」
早乙女雅博「製作技法からみたお茶の水女子大学拓本の年代」
奥田環「東京女子高等師範学校の学術標本―教材としての広開土王碑拓本の背景―」

特別展示(11時~15時):本館1階103室にて広開土王碑拓本を展示

2012年5月27日日曜日

魏志倭人伝の謎を解く

渡邉義浩『魏志倭人伝の謎を解く―三国志から見る邪馬台国』(中公新書、2012年5月)

昨年、たてつづけに『三国志―演義から正史、そして史実へ』、『関羽―神になった「三国志」の英雄』、『曹操墓の真相』(監訳)を出した著者が、ついに邪馬台国にチャレンジ。

渡邉氏の「『三国志』東夷伝倭人の条に現れた世界観と国際関係」(『三国志研究』6、2011年)を下敷きに、『三国志』の世界観や編纂背景を踏まえて、倭人条に含まれた「理念」と「事実」をよりわけて、邪馬台国に迫ろうとしている。

最近、石野博信ら編『研究最前線邪馬台国―いま、何が、どこまで言えるのか』(朝日選書、2011年6月)、東潮『邪馬台国の考古学―魏志東夷伝が語る世界』(角川選書、2012年3月)、大塚初重『邪馬台国をとらえなおす』(講談社現代新書、2012年4月)などなど、やたら邪馬台国関連書が出版されている。纏向遺跡の発掘が影響しているのだろうなぁ。

「知」の欺瞞

アラン・ソーカル、ジャン・ブリクモン著、田崎春秋・大野克嗣・堀茂樹訳『「知」の欺瞞―ポストモダン思想における科学の濫用』(岩波現代文庫、2012年2月)

アメリカのカルチュラル・スタディーズ誌『ソーシャル・テクスト』にソーカルが投稿したパロディ論文「境界を侵犯すること―量子重力の変形解釈学に向けて」が掲載されてしまったことをきっかけに、いきすぎたポストモダン思想を批判する目的でフランスで出版された書籍。

ラカン、クリステヴァ、ボートリヤール、ドュルーズとガタリ、ヴィリリオなどの超著名な知識人の著述に見られる科学用語が、明白な濫用であることを指摘している。ここでいう濫用とは、①何の議論もなしに通常の文脈を完全に離れて使用すること、②論点と関係なく、めくらまし的に科学用語を並べたてること、である。「王様は裸だ!」と正面から述べた本という感じ。

増補 民族という虚構

小坂井敏晶『増補 民族という虚構』(ちくま学芸文庫、2011年5月)

先日紹介した『アジア遊学150 アジアの〈教養〉を考える』で
紹介されていたので購入。

〈民族〉の虚構性を改めて確認したのち、その虚構性を単純に否定するのではなく、社会がさまざまな虚構が存在することによって、はじめて機能することを指摘し、開かれた共同体概念をどのように構築すればいいかを考察している。

第三章虚構と現実に「虚構の成立と同時にその仕組みが隠蔽されることが、社会生活が機能するための不可欠な条件をなす。虚構であるにもかかわらず現実の力を発揮できると主張するのではない。虚構と現実との関係をこのように消極的に捉えるのではなく、反対に両者の間に根元的で分離不可能な関係をみなければならない」とあるが、いま考えている研究テーマと密接に関わってくる。

というか、なんでもっと早く読まなかったのだろうか。アンテナの感度が落ちているような気がして、ちょっとへこんでしまった。