2009年12月3日木曜日

『宋代中国』の相対化

やっと宋代史研究会編『『宋代中国』の相対化』(汲古書院、2009年7月)を読了した。
収録論文は12本。どれも面白く、刺激的だった。
著者は全員30~40代。山根直生氏による編集後記の中に、
「前編集委員から託された方針はただ一点、執筆陣・編集委員の双方に
……従来よりも若い世代をあてること、のみであった」とある。
そういえば、遼金西夏史研究会も若手中心の研究会だ。
内実はよくわからないけれど、この論文集を読む限り、
宋代史研究会では、若手の勢いが盛んで、
世代交代がスムーズに行われるように思えてくる。
編集後記の付記にある故津田芳郎先生の若手へのエールがまたいい。

十一世紀後半における北宋の国際的地位について

毛利英介「十一世紀後半における北宋の国際的地位について―宋麗通交再開と契丹の存在を手がかりに―」(宋代史研究会編『『宋代中国』の相対化』汲古書院、2009年7月)

北宋神宗期の宋と高麗の通交再開について再検討し、
主要因は経済面ではなく、政治面にあったとする。
すなわち、宋朝には高麗との関係を一定程度回復することで、
「中国」としての装いを整えようとしたとする。
また、遼は高麗経由で宋の文物・情報が流入することを
期待して宋と高麗の通交を黙認したのではないかとする。

個人的には、上記に続く第二章第二節の方向表現からみる国際関係が
最も興味深く、とても面白かった。
遼と北宋が相互に「北朝」・「南朝」と称呼したのみならず、
高麗や西夏にも同様の認識が存在したことを指摘。
さらに遼において、東韓(高麗)・西夏・南朝(宋)・北朝(遼)という
方向表現があったことを示す。
もちろん、北宋・遼ともに自国を「中華」とする認識が存在したことは間違いないが、
一方で北宋・遼ともに「南朝」・「北朝」という意識も持っていたことがとても面白い。
南北朝時代には、あまりそうした認識はうかがえないのではないだろうか。